小説

奇妙な物語の内容について、

クラスのみんなで、話し合ってみよう!


傍観者

A棟、B棟、C棟の三棟からなるこの施設には、私の他、10人の作業員と、監督1人、女中5人、守衛2人、アルバイト5人、老人1人、住人20人、そして犬が1匹いた。私は、総監督として、この施設の組織を率いている。A棟には住人が住み、B棟には仕事場、C棟には私たちの寮があったが、地下への道は封鎖されている。それほど大きくないこの施設ではあるが、地下への階段の踊り場には、いつも守衛が立っていて、私たちが近づくのを拒んだ。

A棟に住む住人は、それぞれ1LDK、2LDKほどの部屋をあてがわれ、そこから買い物に行ったり、仕事に出かけたり、学校に行ったりした。施設には門限がなく、夜中に酔って帰ってくる住人もいた。施設全体は、あじさいの植え込みによって囲われて、おおよそ300坪ほどの大きさ。よく整備されたスペースは、アルバイトによって掃除され、手入れされた。よく働くアルバイトで、我々の作業を手伝う事はしなかったが、女中と連携してこの施設を非常に快適に保った。

犬は、これもまたよく飼い慣らされた犬で、老人がこの犬の面倒を見ていた。老人はこの施設ができた時からここにいるらしいが、それ以上の事はあまり話そうとはしなかった。私がここに赴任してきた時、老人は、私にこう言った。

「やあ。君が新しい総監督だね。ここでの作業は、とても楽だよ。しっかりと、定年まで勤め上げるが宜しい」

老人が言うように、ここでの作業は非常に楽なものだった。その作業についてはあとで述べるとして、監督が主に具体的な作業を統括し、指揮指導するため、私の仕事は日報・週報・月報に目を通す事、朝礼で訓戒を述べる事、それくらいである。本部との折衝も監督や作業員が行うため、私はお飾りのようなものだった。しかし、監督以下作業員は、私に対し親しみと敬意をもって接し、女中や守衛、アルバイトも気さくであった。住人も、私が総監督である事を知っているため、にこやかに会釈する。

私に対して高圧的なのは、地下への階段の踊り場にいる、守衛だけだった。ここでの、伸びやかな生活の中で、その守衛だけが、重石のようにそこにあった。守衛ははっきりとした顔立ちをしている。もう一人の守衛は、施設の入り口に立っており、穏やかな顔をしている。施設の入り口には簡易な守衛室があった。階段の前の踊り場には、左脇にドアがあり、そこにその守衛の部屋があるようだった。施設の入り口の守衛の仕事は、老人やアルバイトのうちの一人が交替してシフトを組んでいるようだったが、階段のところの守衛だけは、時々仮眠を取りながらも、ほぼ休まずの体で、いかめしい守衛が番をしているのだった。

いかめしい守衛は、ラジオを聞くのが楽しみなようで、ちょくちょくラジオを聞いていた。地下への踊り場というのは、C棟の給湯室や食堂がある廊下をずっと奥まで行き、L字に折れた先にあるのである。ある種隔離されているのだが、L字に折れたあとの部屋に、総監督の古い書類、専用の小道具・大道具、整理すべきもの、整理するか不明なもの等が置いてあり、総監督である私は、この地下への踊り場へ近づく事が多かった。

そのうちわかった事だが、さすがにいかめしい守衛も不眠不休の番とはいかないのであろう、女中と交替、協力して、その地下への道を封鎖し続けている事がわかった。それとなく女中に聞いてみたのだが、食事などを運びがてら、会話する事もあるし、ゲームをする事もあるらしい。また、非常に目立たない裏口が隠してあるようで、いかめしい彼は夜中に女中と交替し、そこから、外に出て人に会ったりする事もあるようだ。いずれにせよ、あまり休んでいるようには思えなかった。

私はいつも、その守衛を気にしていたわけではない。私はこの施設の王のようなもので、日常的な業務は皆、部下がみなやってくれる。そうすると非常に退屈をするのだが、C棟には娯楽室があり、喫茶室があり、音楽室もあった。C棟はやや古いけれども、しっかりとしたつくりの4階建て屋上付である。1階には食堂、倉庫、風呂場、洗濯室などがあり、2階と3階は私以外の労働者の寮となっている。そして4階には私の部屋と、それらの楽しい部屋があり、私たちは、休日や仕事終わりにはそこで時間を潰すのであった。C棟の部屋の設備は、外部の出入り業者によって完璧に保たれた。

外出は禁じられていないが、私はそこで時間を潰す事が多かった。私の部屋にだけ、トイレと風呂がついている。しかし私は皆と一緒に1階の共同浴場に入る事が多かった。私は山城という名前だが、

「ヤマさんが来てから、ここはとても良くなりましたよ」

「いやあ。僕なんて、何もしてないから」

「いやいや」

などと、風呂場で会話するのが楽しみであった。私はかつては結婚していたが、妻に先立たれて独り身であった。すっかり独り身に慣れてしまい、また妻を今でも愛していたので、今更結婚しようという気はあまりなかった。休日は外出する事もあり、そこでは女友達や同級生と会う事もあったが、結婚という流れにまでは至らない雰囲気であった。私の事を好きでいてくれる女性がおり、あわや結婚という交際にまで発展したが、亡き妻の事が吹っ切れず、そのままの付き合いが続いている。

総監督の仕事として、実務的な仕事がないかわりに、この施設を温かく見守るという仕事があった。その範囲であれば、何をしても構わない。私は本来内向的な性格であるので、B棟での見守りの仕事半分、残り半分は、A棟の住人とのコミュニケーションや、C棟に出入りするメンテナンス業者とのコミュニケーション、手伝いなどをした。私の仕事を評価する人もいないし、何か批判される事もない。これほど自由な立場はなかった。給料は手取りで60万円得ており、ボーナスもあった。それでもここの人たちは、私をやっかむ事はない。

さて、この施設の作業というのは、映像や写真の撮影であった。オーダーメイド、パッケージ、両方扱っている。B棟とはその撮影現場であった。時には、C棟の娯楽施設を援用して撮影する事もある。私の直属の部下の、「監督」は、そのための監督であり、撮影に精通している人物であった。いわばこの施設は、技術部であり、私の正式な肩書は「井上映像株式会社 映像技術部部長 山城親太朗」である。俳優を使う場合は、外部から人がやってくる。作業員たちは、カメラを回したり、必要な素材を調達したり、コンピュータを操ったり、エキストラとして登場したり、特殊メイクを施されてカメラで撮られたりしていた。

基本的な業務は全て監督が行う。オーダーメイド案件は、必ず監督が責任をもってやるのだけれども、パッケージ商品については、総監督である私が、手すきの時に作業員を使って作る事ができた。私が何の気なしに作った面白映像や写真が、トルコやエジプトで非常に売れるらしく、私が総監督になったのは、そういう強運の巡り合わせもあった。監督が言うには、私がかつて手がけた映像や写真によって、井上映像はヨーロッパ、イスラムへの販路を獲得したのだ、という。私は一応は美大で映像を学んだけれども、映像だけでなく手広く活動していたため、実は映像や写真に関して強烈な専門性があるわけではなかった。

しかし、私が少しずつ手がけている映像・写真は、トルコやエジプト、南欧を中心としてよく売れるらしく、会社からは「ヤマっさんはあくせくしないで、作家のように泰然としてですね、ゆっくり作って下さい」と言われている。私は自分の才能にはあまり自信がなく、この幸福的な展開は一体何なのだろうか、と思ったものだ。その言葉に甘えて、何でも部下に権限移譲してしまい、実務上はお飾りのようになっている毎日であった。平和そのものである。

そんな日々が続き、ある日、チョムスキーが訪ねてきた。チョムスキーは、会社本部のロシア人の取締役である。

「チョウさん、お久しぶりです」

「嗚呼、君だ、元気ですか」

チョムスキー、愛称チョウさんは日本語が達者で私と親しい。チョウさんは、何となくぼんやりしているようだった。そして出し抜けに、

「フィナーレだよ。地下は嫌いかね?」

意味が不明だったので、苦笑して私は少し不安になり、

「どういう事ですか?」

と聞いた。遂に降格、左遷されるのかと思ったのである。

「うん…。ちょっと、立場が苦しくなってね。この施設に地下があるだろう。そこに、”何かある事”を確認してもらいたいんだ。一応、本部からの手紙を持ってきているから、守衛も通してくれるかも知れない。だけど、通してくれないかも知れない」

「フィナーレとは?」

「ううん…。実は私にもよくわからないのだが、そのような言葉が思わず口を衝いた。君にはわかるかね」

「チョウさん、何となく、わかる気がします。不安な事には変わりませんが」

「この案件には、いわば、予感めいたものがあってね」

チョウさんはそう言うと、肩をすくめた。チョウさんも、地下への踊り場までは立ち会ってくれるが、あとは一人で地下まで行かねばならぬらしい。私は手紙を受け取って、すぐにC棟へ向かった。この愛する施設の人々は、みな、そんな事は知らずに、幸せそうな顔をしている。これからどうなってしまうのだろうか。チョウさんは脇をしっかりと締め、鉛の足の足取りで私の横を歩いた。そうすると私も何だか陰鬱な気分になるのだった。

C棟に入り、そのまま食堂の横を抜けて、奥の踊り場へ向かう。食堂は丁度、誰もいない時間帯であり、しーんと静まり返っていた。蛇口からの水滴の音すら、聞こえない。この角を曲がると最後の廊下である。チョウさんは何も言わなかった。そして地下への階段前には、守衛が、真面目な顔をして立っていた。緊張が走る。我々を確認すると、微動だにせず、声をかけた。

「何か?」

チョウさんは、本部からの手紙を守衛に渡した。守衛は、しっかりとした手つきでその手紙を開封し、黙って書面に目を通した。私は書面に何が書いてあるか気になったが、丁度見えない角度でありその表情から何かを推し量る他なかった。守衛は、全く表情を変えずに手紙を見、そして溜息をついた。少し、眼が潤んでいるように思えた。守衛は、そして、笑った。いかめしい顔を使って、何とも美しい顔で微笑んだのである。

「ヤマさん…。今まで、ご無礼を致しましたが、今日のこの日で許して下さい…」

「え。あなたは何かご存じなのですか」

「それは申し上げられないのですが…」

チョウさんは、ゆっくりと息を吐いて、語り始めた。

「ヤマくん…。君は、地下への階段を降りて、地下の世界を見てきてほしいのだ。我々には、地下の世界に行く事はできない」

私は何か冗談を言っているのだと思った。すこし下品に笑いながら、

「ひゃっひゃっひゃ。おかしい、おかしい。スタジオ施設の地下が、何ですか?」/

チョウさんと守衛は、私を見て、再び、共に静かに微笑み、

「兎にも角にも、地下への階段を降りなければなりますまい。守衛さん、バッグを彼に渡して下さい」

「バッグ?」

守衛は、守衛室に戻り、金庫の錠を手早く解除し、中から茶色の革のバッグを出した。そしてそれを私に渡し、

「これをお持ちになって、地下への階段を降りて下さい」

「地下への世界とか、バッグとか…。まるで広いみたいだけど、そんな事があるかね。確かにこのあたりは郊外だけれども、そんなにねえ」

私は愚図っていると思われるのも嫌だと思い直し、さっさと地下に降りる事にした。すると、刹那、守衛とチョウさんは、目を潤ませて、万歳、万歳と叫び始めた。よくわからない冗談の世界であったが、私はもう相手にせずに階段を降りた。階段を降りた先には、またドアがあり、ドアノブをひねって私は部屋に入った。

部屋は、まるで地下の駐車場のような広さだった。天井も、トラックは無理にしてもちょっとした車だったら止められそうだ。200坪くらいはあろうか。ただ、コンクリートでできた、漠然と広い空間。コンクリートの床は、ただ漠然と広がっていて、少し恐怖を感じる。しかし、常夜灯のように灯りは薄暗いながらも灯され、ここも手入れがされているようで綺麗であり、蜘蛛の巣もゴミもなかった。とにかく調査業務であろうという事で、私はこの部屋をはじからはじまで、くまなく歩いた。少し古いけれども、美しいコンクリートできっちり、造ってある部屋である。ただ漠然とした部屋で、まったくスキもなく、四方八方がコンクリートで塗り固められている。ただ天井には換気口があり、空調設備などが部屋のすみに置かれている。消火器、水道などの設備もあるが、ここから先の部屋は展開していないようだった。

こうやって地下に放り出されると度胸が据わるというか、特に怖いものはなかったが、とっかかりがあるものではないのでどうしようもなかった。私は茶色の革のバッグを開けてみた。革のバッグを開けると、中に巾着袋があった。巾着を開けると、あまり見た事のないような古い銀貨が20枚ほど、金貨が3枚ほどあった。巾着以外には、木の札があり、それは古い手形のように思えた。しかし銀貨があろうと手形があろうと、この地下室には何もない。つまりこの部屋で私と交渉したり、歓談したり、対立したりする相手はいない。これらもまた、何の役にも立たなかった。せめてバッグの中に鍵でもないか、と思ったが、どこをどう探しても他には何もなかった。

忍者屋敷のように、見た目、何もないところに隠し口があるのではないかと思い、もう一度、よく調べてみた。消火器の裏を調べてみたり、空調設備を見てみたり、水道の蛇口をひねってみたりした。壁に薄いところはないか…と思ったが、特に違和感のある部分はない。壁を触っているとコンクリートでひやりとする。万事休すである。それとも、これでいいのだろうか。私が地下に降りる事に意味があるのだろうか。井上映像の仕事自体が、クリエイティブ産業という事に加えて独特のおかしなところがある。私は、もう少しゆっくりしてから、階段を戻る事にした。

ここで、私は思い立った。もしかして、この部屋は関係なく、階段の途中に何かあるのかも知れぬ。守衛のいるところから、階段を経て、この部屋に入る。その階段のところに、何か、隠し口があるのかも知れぬ。私は再びドアノブをひねり、階段の部分を調べてみる事にした。

改めて階段の部分を調べてみると、薄くほこりが積もっており、小さなゴミも落ち、少し蜘蛛の巣も張っている。ここで私は不思議に思ったのだが、あの地下室は美しく保たれているのに、どうして、この地下への階段には、私以外の足跡がないのだろうか?この地下室をメンテナンスするのに、一体何処を通るというのだろう?とりあえず階段の部分を調べてみたが、階段も、壁も、ドアの周辺にも何もなく、平凡な地下への階段というべきところであった。上階の守衛室から、チョウさんと守衛が歓談している声が聞こえてくる。私は馬鹿馬鹿しくなって、上階に戻り、守衛室の窓からチョウさんたちに声をかけた。

「チョウさん。何も収穫あらず、ですよ」

「ひいっ。や、や、や」

「きっ」

チョウさんと守衛は、まるで死人を見たかの如く、酷く驚愕した。そして、息を弾ませて、

「どうしたんだ、君。地下世界への大冒険が、今、始まらんと…」

「何を言っているんですか?ただ地下駐車場みたいなところじゃないですか…」

「…………!」

チョウさんと守衛は、力なく笑った。長年の夢が覚めた、というように見えた。守衛とチョウさんは、物悲しそうに顔を見合わせて、

「ああ!!私は今まで、何を守ってきたのでしょうね。情けないような、おかしいような」

「本当に、君、済まないね。本部もさぞ、がっかりするだろう」

私は何か責任を感じてしまい、もう一度地下へ降りてみます、と言った。

「そうしてくれるかね。まだまだ、探し足りないのかも知れないよ」

「そうです、ヤマさん。悪くても、少なくとも、あなたはもうこの施設で足を踏み入れる事のできない場所は、婦人トイレを除いてないでしょう。それならば、いっそ、何か見つけるべきですよ」

「で、あるなら、しばらく、地下を調査してみる事にします。何かあるような気が、私もします」

「うん。どんな小さな発見があっても、教えてくれ。また、この件については、書類ベースでの報告はいらないからね。頼むよ」

私は何だかがっくり疲れてしまい、食堂で何か食べる事にした。午後から地下を調査して、既にもう夕方になっており、女中が食堂に入っていた。ちょうど5人組のアルバイトの休憩中であって、アルバイトが煙草を吸ってドリンクを飲んでいる。私はアルバイトにおごってやる事にした。ここにはビールもあるが、酒はビールしかない。声をかけ、アルバイトの輪に混じった。

「ヤマさんはここに来てもう2年くらいですか」

「そうだね、2年くらいだね…」

私がおごってやるよ、と言うと、アルバイトの人間はしきりに恐縮したが、私はトンカツ定食をおごって一緒に食べる事にした。ここのトンカツはとてもうまい。しっかりと揚がっているし肉がうまい。ビールを飲みながら、アルバイトと話していると、今日の疲れも取れる気がした。

「そうそう。今日ね、あのC棟の地下室に降りたんだよ」

つい、自然な形で口をついてしまった。一瞬、私はしまった、と思ったが、

「へえ。行った事がないんですか。意外だなあ」

「ん?君らは、行った事あるの?」

「ありますよ。毎週、掃除に行っていますから

私は少し驚いた。まさかアルバイトが行き来しているとは思わなかった。

「どこから入っているの?」

「この食堂出て、地下室方面へ行きますよね。そうすると、ヤマさんがいつも出入りしている、備品室みたいな部屋ありますよね。そこに、ハシゴがあるんです。見つからないようになっているんですけど」

「………!!」

私は夢中になって聞き出した。つまり、私が大道具や小道具を出し入れしている床の絨毯をめくると、床に一畳ほどの木の扉があり、それを開いてハシゴを降りてゆくのだと。降り立つと、掃除道具がしまってあるロッカーを開ける。他にもその空間には部屋があるが、アルバイトは入る事が禁じられており、そこもかなり広い。まっすぐそこの廊下を進むと、行き止まりに突き当たる。突き当りの壁には、へこみがあり、そこに木の札を押し当てると、突き当りの壁が回転して、私がさっき行った地下空間に入るのだと…。そして掃除道具でその部屋だけを掃除するように、言われているのだそうだ。そうやって守衛をスルーするらしい。

「あ…。でも、その事を、私に話しても良いのか?」

「ええ。聞かれたら答えてもいい、と言われてますので。僕たちもよく知らされていないのです。明日日曜日で、僕ら休みなんですが、一緒に行ってみませんか?」

「うん。私も木の札を渡されているのだが」

私は木の札を見せた。私の木の札と、彼らの木の札は違うらしい。彼らの木の札は新しく、中にはICチップが埋め込まれているのだそうだ。私の木の札は古びていて、如何にも手形といった風、墨書きで何か文字が書かれているが詳しくないので読めない。しかし、何となく、ありふれた手形、木札のように思われた…。とりあえず、朝の10時にロビーで待ち合わせて、行ってみる事となった。

私は久しぶりに、部屋の風呂に入り、湯船に浸かった。地下の「他の部屋」があるのが非常に気になっている。チョウさんや守衛が騒いでいた「地下の世界」のとっかかりが、そこにあるのではないか…と思ったのだ。そうであるとしたら、実に奇想天外な幕開けではないか。鬼が出るか蛇が出るかわからぬが、ここはひとつ腹を決めよう。そう思った。

風呂から出て、喫茶室で酒でも飲もうと思った。これはもしかしたら、地下世界への長い旅路になるやも知れぬ。そう思い、酒とグラスを持って喫茶室へ行くと、アルバイトの長である、横松がいた。横松は酒好きで、ビールを飲んでいた。

「おう」

「ああ、ヤマさんですか。……」

私たちは、言葉少なに、酒を酌み交わした。私はバーボンウイスキーをゆっくりと飲んだ。横松は、戦国武将の武田家の家臣の末裔であるらしく、知性と体力が反映されており、気さくな性格だ。

「ヤマさん…。ヤマさんには好きな人はいますか」

いないわけではなかった。

「いるよ…」

横松は、実に心配そうな顔をしている。

「ヤマさん、あの地下室の調査ですが、あまり真面目にやらん方がいいと思いますよ」

「何故だ」

「ここのお爺さんいますでしょ。犬飼ってる。親戚も井上に勤めているとか…、それよりその人、昔、ここの調査をしたそうなんですが」

「地下室のか?」

横松は、ますます憂いを深め、

「もうね、大変だそうですよ。正に狂気の世界だとか。ヤマさんが昼過ぎに行った、最初の地下室あるでしょ。広い。あそこだって、最初は酷かったそうです。工事をして何とかなったんですが」

「そうなのか?しかし、要領を得んな。君は詳しく知っているのか」

「知っていれば言いますが…。お爺さんが詳しく知っておりますが、あまり語らないのです」

私は、あの老人が、定年までしっかり勤めるが宜しい、と言った言葉を思い出した。このように平和な施設において、ただひとつの闇であり謎であった地下の「世界」。そこに、まるで狂気を掃き集めたかのように、吹き溜まっているとしたら、これ程恐ろしい事はない。

「あのお爺さんね、昔はヤマさんと同じ立場だったんです。そして引退して、次の人になりまして、その人はあまり良くなかったんですよ、そしてヤマさんになりました。何というか、嫌な予感がします。深入りしない方がよいと思いますよ。まあ飲みましょう」

「そうか…」

横松は私のグラスにバーボンウイスキーを注いだ。私は、チョウさんが、フィナーレだよ、と言った事を思い出した。わけのわからぬ世界に巻き込まれて、狂死するような事を暗示しているとしたら、それは嫌なフィナーレだ。この案件のフィナーレ、という事にしたく思った。私も冒険小説に憧れなかったわけではないが、この幸福な生活を失うわけにはいかぬ。私は普通に生まれて普通に死ぬのだ。そして決めた。

「そうだな。あまり、モノを見ないようにしようか。そして、結婚するわ」

「そうした方がいいと思います…」

私は、この案件が済んだら、プロポーズして結婚する事にした。バーボンウイスキーが回ってきて、私は、先に部屋に戻る事にした。横松はまだやるらしい。若い。私は口をすすいで、水を飲み、ベッドに入って5分で眠った。

翌朝、10時のロビーに、横松以下、アルバイト全員が揃っていた。休日なのに済まない、と言うと、アルバイト達は、いえいえ、僕たちも非常に気になる、ヤマさんがいれば調査できない事はないから、この際、すっきりさせたい…と言う。私はそれで吹っ切れ、いざ備品室に向かった。絨毯を剥がすと、なるほど、隠し扉があって、ハシゴが下に向かっている。備品室の灯りだけでなく、下の空間からも光が淡く漏れさし、私たちは難なく地下まで降り立った。

「ふうん。何となく、渋い感じだな。全て木でできているようだ」

「そうなんですよね。このへんは、簡単にしか掃除してないから…へくっし!」

埃が薄く積もっている。そして山小屋、ロッジのような感じで、全て、良い板木を打ち付けてできた空間。天井には白熱灯が灯っている。これは常に点灯させてある。アルバイト諸君が定期的に取り換えるそうだ。そして、まるで山小屋のそれぞれの居室のように、ドアが並んでいる。

「これらの部屋に入った事は?」

「ありません…。開けてみますか?」

「………」

迷ったが、開くかどうかだけ、少し確かめてみよう、という事となった。ドアは、4つある。まず左手前。これは開くようだ。開けずに、そのまま元の状態にした。

「ここは開くようだな。見るのはやめておく」

次に右手前。これは開かない。本当に開かないのか、ドアノブを強く引いたり押したりしてみたが、鍵がかかっているようで開かない。ドアノブには鍵を差し込むところすらない。左手奥、右手奥も、同様だった。つまり、一番近い、左手前だけが開くようである。

「ヤマさん。実は、このドアを開けた事があるんです」

「本当か、横松」

「その時、開けた時は、半畳ほどのスペースがあって、石壁が先を塞いでいました。石壁には」

「石壁には?」

「凹みがあります」

………。もしかして、その凹みに、私がもらった木札をあてがうと、石壁が開くのではないか…と思った。どうするべきか。段々と後戻りできなくなってしまうのではないか。しかし、いざとなったら、アルバイト君の札で、広い地下室の方へ逃げ込めばいいのではないか、と思った。そう提案すると、横松は、

「やりましょうか。何と言っても、たかが、井上映像の施設の、地下室ですから。ちょっと集団暗示にかかってますよ、僕ら。こんなのは大した事ないんです」

そう言って、おもむろに、木札を私から受け取り、凹みにあてた。木札を離すと、石壁は、ゆっくりと、ゆっくりと、上昇して、我々に道を開いたのである。案外、薄い石壁であるな、と思ったが、その先には、レトロなATMのようなものが目に飛び込んできた。再びの半畳スペースである。

「これ、まるで20世紀のATMっていう感じだな」

「そうですね。レトロもレトロですね。スイッチがありますよ。もう入れちゃいましょう」

横松はスイッチボタンを押した。すると、古い機械音が鳴り、ブラウン管に「残り11500$」と表示された。その他、機能としてありそうなのは、タイプライターで押すテンキーとイエス・ノー・キャンセルのキー、硬貨投入口、硬貨排出口。それが、クラシックな佇まいであるのである。横松は、

「写真撮っておきますね」

と、ソニーの一眼レフで写真を撮った。そしてブラウン管を人差し指で触って、

「これは去年、取り替えたものです。ブラウン管だけ」

「知っているのか」

「実は私、このATMまでは来た事があるんです」

「そう、横松さんと一緒に作業しました。本部の人が来て」

そうだったのか。知らなかった。ここまではメンテナンスが許されているらしい。そうすると、私のもらった木札は、汎用的なものか、スペアがあるのか。もしかしたら、単にサイズの合う木札を押し込む事で、道が開けるようになっているのか?また、この作業については、他言無用の念書を書かされており、もしそれを破れば、クビだけでは済まなかった…ようである。

「他に、知っている事はないのか?」

「ATMの事は黙っていて済みません…。でも、ここから先は、僕たち、本当に知らないのです」

「その時スイッチは入れた?」

「ブラウン管を取り替えただけで、スイッチは入れていません。本部の人と一緒に、ここを同時に出て、戻りました」

「石壁は戻るの?」

「レバーを引きます。最初の木戸を開けた右手壁の、金属の箱の中に小さいレバーがあります」

「そうか…。よく話してくれた」

これでは、アルバイト諸君を連れてこなければ、どうにもなったものではない。昨日、食堂でアルバイトに会わなければ、私一人でテンパイになっていたであろう。しかしATMをどうしたら良いかわからぬ。「残り11500$」という表示は何を意味するのか。引き出すのか、入れるのか。私は試しに、100円玉を入れてみた。すると、

「硬貨種エラー。正しい硬貨を入れて下さい」

という表示が現れた。イエス、をタイプすると、再び「残り11500$」と表示された。これはつまり、11500ドルを硬貨で入れなければならないようだ。

「ドルを入れろ、という事か。誰かドルは持っていないか」

「25セントが3枚あります」

と、アルバイトの村田が言う。村田はコイン・コレクターだった。

「村田、その25セントをもらってよいか」

「入れてみましょう」

私は、村田からもらった合計75セントを、投入した。すると、

「75セント?」

と表示。イエス、をタイプすると、

「受付」

と表示。しばらくすると、

「残り11499.25$」

と表示が切り替わった。

11500ドルと言えば、100万円以上である。そんな大金を、このような怪しげな機械に入れて良いものかどうか…。井上映像のこの施設には、撮影用小道具として、大量の、様々なマイナーコインがある。一部、銀貨や金貨もあるが、これは私にはアクセスできず、監督にお願いしないといけない。備品室の金庫にそれらはあるが、鍵は監督が持っている…。それをどしどし入れてゆけば、もしかしたら到達するかも知れない。しかし、それには監督の力も借りねばならぬ。「監督」は、日曜日は、ややこしいが選手として野球をしているのでここにはいないのだ…。

「平日なら、何とかなったかも知れないが…」

「うーん。ブラウン管を交換した時の事なのですが」

「うん、何だ」

「本部の人も、正直、よくわからない、といったようでした。マニュアルを見ながら、手際悪そうにやっていましたからね」

「井上映像の闇か…」

しかし、ここまで来て、何もしなかった…となれば、私の評価は下がるかも知れない。ここまで来たら、クリアするしかないのではないか、と思った。そこで私はふと、チョウさんからもらった鞄の中にある、金貨や銀貨を入れてみたらどうだろう?と思ったのである。銀貨は10枚、金貨は1枚だけあった。もう少しあったような気がしたが、気のせいだろうか。金貨や銀貨を、村田に見せてみた。

「村田。どう思う?このコインは」

「うーん…。何とも言えませんね。少なくともドルではないと思いますよ。かなり古いもののように見えます。でも入れてみる価値があると思います」

「横松はどうだ」

「入れてみましょう!」

私は、まず銀貨を続けざまに入れた。すると!

「5287.22ドル?」

と表示されたではないか。何という高額査定だろうか。また、何という機能性だろうか。どこのものとも思えぬ、古い銀貨を、この古めかしい機械は一瞬にして査定した。イエスをタイプ。「受付」が表示された。しばらくすると、

「シリーズの金貨を続けて投入した場合、コレクタープレミアムが追加で1003.54ドルつきます。お持ちでしょうか」

と表示された。恐らくこの金貨であると思われるため、イエスをタイプし、金貨を一枚、投入。すると、

「只今、再判定しております。60秒ほどお待ち下さい」

と表示。じりじりしながら待つと、「108045.98ドル?」と表示された。金貨だけで10万ドル、1000万円である…。レアな古代か中世の金貨だったのだろう…。イエスをタイプした。すると、ガチャン!と大きな音がして、とても驚いた。そして、

「残額はゼロになりました。お釣りを出すならイエス、デポジットするならノーを押して下さい」

と表示された。私は迷わずノーを押した。直感である。すると、

「デポジットが規定をオーバーしましたので、このATMは解除されました。おめでとうございます。暗証番号を入れて下さい」

私は迷いなく、0000と入れた。すると、

「暗証番号を受け付けました。お忘れなきように」

と表示され、ATMは、床ごと、ず・ず・ず、と静かに、沈んでいったのである。私の1000万コインを返せ…。しかし目の前が開け、その先には、12畳ほどの、これもまた古めかしい部屋があった。少し淀んだ空気がむっと漂ったが、すぐに空気は入れ替わった。風は静かに流れてゆくようになった。地下室の方の換気が効いているのだろう…。

ここはランプ、そして白熱灯によって部屋が灯されており、沢山の箱が置かれている。そして獣臭い。人はいないが、人のいたような気配があり、煙草を吸った後がある。サン=テグジュペリの部屋のような、戦前の空気を保っていた。本棚もあるが、洋書ばかり。アルバイト諸君と共に、この部屋に入ったのである。

「部屋は謎だ。また先にドアがある」

「あのドアはガチですよ。やばいと思います」

「あそこから先が、気違いの世界だな」

「さようで」

横松は、冷静に、写真を撮っていった。私は洋書などを本棚から取り出して眺めていたが、英語の本であっても古い英語なのでよくわからなかった。問題は、この、沢山の箱のように思えた。この箱から気違いが飛び出してくるのだろうか。気違いじみた世界が始まるのだろうか。この部屋に入り、横松が写真を撮った、ここまでの働きで良いのか…。私にはもうどうしていいかわからぬ。一通り、写真を撮り終えて、横松が、

「ヤマさん。この箱を開けてみましょうか」

「鬼が出るか蛇が出るか…。化け物などおりはせんだろうか」

「開けましょう、開けましょう」

意を決し、箱を見渡す。箱は8つあった。大きな木箱である。どうも獣臭いのはこの箱のどれかから出ているようだ。検分すると、中身は驚くべきものであった。まず第一の箱、空。第二の箱、民芸品の数々。異国情緒溢れるが、他愛のないものだ。第三の箱、象牙細工、象牙製品の数々。恐らくは本物の象牙であるらしい。非常に精巧。象牙そのものもある。小箱に入れられているものもあるが、とにかく大量の象牙の数々。第四の箱、刀、弓矢、銃器の類。骨董品のように見える。第五の箱、鎧、衣服。第六の箱、同様に鎧、衣服。第七の箱、薬、身の回りのものなど。そして最後の第八の箱、金貨・銀貨・銅貨の類。これに村田が食いついた。

「うおおおーーーっ。太閤円歩金が10枚。謙信小判が5枚。慶長大判金が10枚。永楽金銭が30枚以上。戦前・戦中の中国の金貨銀貨が大量に。古代ローマの金貨銀貨。これは大英博物館で見た事があるぞ。何億だ、キーキッキッキッキ」

村田は大騒ぎしている。横松が冷静になるように指示し、アルバイトはノートに、それぞれ、何が入っているかのメモを始めた。村田も冷静になりつつも、興奮気味に何があるかを記している。大雑把にでも報告するためだ。横松は個々のものを撮影し始めた。やはりバイト諸君は訓練されている。

アルバイトが作業しているところを眺めながら、私は、一種の茶番めいた、予定調和のような感覚をおぼえた。美術史などを大学でやったので、何となく感じたのだが、これらの財宝は、恐らく、数十億単位になるのではないかと思った。木箱は一抱えほどもある大きな箱であって、その中に象牙だの、金貨だの銀貨だのがあるのだ。アルバイトが騒いでいるが、象牙の細工も相当、大したもののようだし、金貨や銀貨に至っては、村田がスマホの中の電子書籍を参照しながら驚いているが、有り得ないほどのラインナップのようである。蒋介石がどうとか言っているが、私にはよくわからない。

ふと、部屋を眺めて、ここの部屋の木戸…つまり、先ほど、気違いが飛び出してくるのではないか…という展開場所、謎の木戸の前には、古い盛塩がされていた。器も銀の器である。塩は黄色く変色している。銀の器も、緑青がかかって古い味わい。そこだけ見ると、古いバーのようにも見えた。いや、ここはバーなのではないか、とふと思った。第一の箱は空であったが、そこには獣の匂いが濃く残っていた。このドアを開ければ、狂人が飛び出してくるのではなく、古い、良い感じのバーがあるのではないか、と思った。直感である。私は直感だけで、井上映像の施設総監督にまでなった男だ。

何故そんな事を思ったか、はわからない。だが、記憶の底で、私は、この先にバーがあって、そこまでの見取り図を見たような記憶があるのだ…。暗証番号が0000であった事も、その資料にあったような気がした。私には、人生の中で、記憶が曖昧な時期があって、その時に、この先にバーがあったのを知ったような…いや、考えすぎだろうか。既視感は脳の錯覚だろう。アルバイト諸君は、いまだに作業している。私は声をかけた。

「うん。だいたい、そこまででいいだろう。どんくらいの価値なのか」

「民芸品はわかりませんが」

「象牙はけっこうすると思います」

「刀、鎧、これ細かいところまで」

刹那、バーンと木戸が開いた。私は仰天した。死んだ、と思った。背中を丸めた老人が、木戸を「世界の外側」から開いたのである。あろう事か、世界の外側はバーに連なっていた。老人は、我々を強い目で見据えていたが、何かわかったのか、穏やかな顔になった。狂死は免れたような気がした。

「すみませんっ」

私は思わず謝った。老人は、微笑むでもなく、泣くでもなく、そして震えながら、

「な、なあに。驚く事はねえさ。あ、あのな、こっちへ来るが、いいよ」

「えっ」

「へへ、へ。ここまでは、あんたらが、入ったって、大丈夫だからよ。杞憂だよ」

老人の誘いは非常に巧みで魅力的であり、我々は、バーの中に入る事にした。あれほど恐れていた木戸は軽く、閉まった。中は温かな雰囲気であった。我々は横一列にバー・カウンターに座ったのである。まるで18世紀か19世紀のバーといった風で、ランプの炎が揺らめき、温かな感じである。

「俺は、電気ってものが、苦手でね。ここには、あんたらのような迷い子が、あ、集まるのさ」

「あ…。またドアがある」

「き、聞いていたけどよ、この先には、あんたらの思う、せ、世界があるぜ」

気違いの世界があるのか。気違いの絵巻物の糊代が、このバーなのだろうか。

「ラム酒で何か、作ってやるぜ。つ、つまみは、その皿にあるものを、食って、いい」

我々はつまみに手を出した。あまりにも美味そうであり、腹が酷く空いていた。色々と皿に乗っている。私はナッツを食べた。夢中でつまんでいる間に酒が出た。ラム酒をサイダーで割ったようなものが出た。うまい。

「あんたら」

「はい」

「この先の世界を調べに来たんだろう」

「はあ」

老人は、びっくりするくらい、穏やかな顔になった。そして、ポッポッポ、ポッポッポと笑った。

「ポーッポッポッポ!ナーニ、もうすぐ、た、旅人が帰ってくるだろう。飲んで待つが良いよ。ほ、ほら、横に扉があるだろう。そう、横の扉は安全な、何だ。ナーニ、こっちはまだ世界の内側ってやつだ。こちらさんには、ベッドもあるし、風呂もあるし、電気も通っているぜ。お、おばさんが中にいるから、面倒も見てく、くれるさ」

「お爺さん、飲みますよ。何か下さい」

「へっ!勘定は、どうするんだい。俺をドモリだと思っているだろう!!!」

一瞬、場が凍り付いた。しかし、老人は舌をペロっと出して、

「フィナーレってやつだよ。段々と、こっちも、いかれてくらあ。ほぐしなよ、お堅い頭を、さっ」

我々は爆笑するしかなかった。この老人なりの、自虐的なサービス精神なのだ。

「いいかい?俺は、客が酔ってくると、どもりが治るのさ。生麦生米生卵、東京特許許可局、竹藪焼けたっ、それ、もっと飲みな。バーボン!テキーラ!何でもあるぜっ」

「ひゃっほう」

我々は飲みに飲んだ。たかが外れた。お爺さん、マスターと呼ばずにお爺さんと呼んだ、彼がフォアグラだの羊肉だの、とびきり美味しい料理を出してくれた。ビールも飲んだ。昔ながらのビールでうまい。時間の感覚を忘れるようだった。ふと気になって、携帯電話の時計とカレンダーを見たが、ちょうど12時であった。ここの時間はわからないが、恐らく、12時間ずれているのだと思う。昼と夜が、逆なのだろう。

悪酔いしない酒で、中華粥を出してくれた。我々は、こちらの世界に馴染んでしまい、まだ昼間だというのに眠くなった。お爺さんも寝るらしい。同時に3人入れる風呂で、交替で入り、煙草を吸って眠った。それはもう深く眠ってしまい、不思議な夢を見て、その夢の中でもまた眠った。夢の中で目覚め、また眠った。光輝く夢を見た。夢の中で、二つの影がもつれあい、周りで囃し立てる群衆がいる。それも忘れてまた次の夢を見る。随分と眠ってしまった。

そして、朝が来た。鎧格子から陽の光が差し込み、心地よい目覚めがある。我々は朝食、を作ってもらい、食べた。昨日から色々と支度をしてくれたおばさんは、無口だが、とても親切だ。まるで旅に出たようだった。空気からして、地下から展開し連なっているとは思えぬ。そもそも、陽光差し込み、春の風が吹き込んでくる。鎧格子の隙間から外を眺めると、一面、緑色だ。遠くから牛や鶏の鳴き声が聞こえる。一体、どこに連なっているのか。不思議である。

遠くから、馬の嘶きが聞こえる。馬の歩みはこちらを目指しているようだ。おばさんは、戻りなすった、と呟き、お爺さんは、ポッポッポ、鳩ポッポとふざけ始めた。我々は、気違いのように笑った。けたけた、けたけた、けたけた。そのうち、おばさんが謎の歌を朗々と歌い出し、お爺さんがそれにハモった。我々は、ドゥワ・ドゥワ、と、バックコーラスを務めた。凱旋、凱旋だ。もうこの世界に取り込まれている。帰ってこれるだろうか、と少し不安になったが、もう世界観が違うのだ。「たか」を徹底的に外してやろうじゃないか。ヨイヤサ、ヨイヤサ。すると、お爺さんが、歌を止めて、心配そうな顔で、

「おい。あんたら。少し冷静になるんだ。全く、俺っちに合わせるでねえだよ、無理に」

「そうね。おばさんお手製のコーヒーはいかが」

それもそうだと思い、我々はコーヒーを飲んだ。何とうまいコーヒーだろうか。ここはまるで別世界で、昨日までの自分はまるで他人のようだ。アルバイト諸君の放心した、充実した顔は何だろうか。馬蹄の響きは次第に力強くなり、ガヤガヤとこの山小屋に一団が凱旋入場してきた。お爺さんは涙を流し、おばさんも静かに泣いている。彼らは男二人、女一人であった。そのうちの、男二人の顔に見覚えがあった。ああ、後輩の鈴本と豊田ではないか。井上映像本社勤務だった頃、元気な二人組がいた。海外勤務になったと聞いていたが、彼らは、この世界に突入して、何事かをなしてきたのか…。

「鈴本、豊田。元気そうだな」

「ああヤマっさん!迎えに来てくれたんですね」

「結果的に、な」

彼らは酷く汚れていて、疲れていた。とりあえず水を飲み、パンを頬張り、風呂に入り、その間に我々はお爺さんに話を聞いていた。話によれば、鈴本と豊田は、この世界を冒険し、平和をもたらした、のだと言う。お爺さんとおばさんは、井上映像のある我々の世界と、この世界の間の番人のようなもので、お互いが勝手気儘に出入りしないように注意しているのだ、と言う。狂気的な集団がこの世界に害を与え、苦しめていたところを、鈴本と豊田、そしてこの世界の女性一人が、討伐し治めたのだと。お爺さんの話からすれば、ここはいささかファンタジックな世界であり、また地球と比べればパラレルな世界のようであった。我々の世界から、世紀は遅延する事200~300年といったところであるようだ。魔法こそないが、非常に信仰深く、自然との調和を重んじる世界。そしてあの閉ざされたドア、あれは鈴本と豊田が安寧をもたらした世界の入口であって、また、このドアから入ったこの世界とも、海を隔てて繋がっている。そこまで聞いたところで、鈴本と豊田は、身綺麗にしてこちらに来た。

「ヤマっさん。大変でしたよ。もう、4年くらいの冒険譚でした」

「そうか。そちらの娘は?」

「豊田の、恋人になった人です」

豊田と彼女ははにかみ、はにかみ、くしゃくしゃに破顔した。豊田は言った。

「だいたいの事は聞かれたと思いますが…。我々は、井上映像の特命により、この世界の悪を鎮圧したのです。創始者・井上権蔵は、この世界の出身者なのです」

「そうなのか。井上権蔵は、大正生まれと聞いていたが」

「彼は、15歳の時、この世界を出て、あちらの世界で業を興さん、と旅立たれたのです。我々は、言わば恩返しとして、この世界に派遣されたのです」

「ふうむ、まるで、ファンタジー映画か、RPGのようだ…」

彼女は、凛とした表情で言った。

「あの、ヤマさん…。私と豊田は、ここの、山小屋とバーで暮らそうと思うのです。お爺さんの意思を引き継ぐために」

「そ、そうか…。結婚するのか。おめでとう」

「……」

鈴本は、我々の世界に戻る、と言う。そして、あの地下室にあった財宝の数々は、この世界の魔なるもの、狂なるものを倒した報酬や彼ら自身が持っていたものであり、井上権蔵の隠し財産であったりとするらしい。パラレルな関係にある世界であるが、こちらの世界にも、「日本」があるようだ。文化や歴史など、共通するところはあるが、ディティールが異なったり、かなりの部分で違ったりするところもあるようだ。少しずつ、ズレた世界である。

「しかし、そんなに簡単に、邪悪な連中をなぎ倒せるものかね」

「うーん。何となくね、予定調和的というか、虚構的なものを感じましたが、大変には大変でしたが」

「虚構、か……」

確かに、ドラクエじゃあるまいし、魔物を倒し、魔王を倒しました、財宝を得て世界の王になりました、じゃあるまいし。鈴本と豊田は体育会系だったが、性格もおとなしいし、現在の体格を見ても、以前と比べると苦労したのだろう、随分逞しくなったが、その肉体だけで何とかなるものなのか。世界ケンカ旅行じゃあるまいし。

「君らは、空手でもやっていたのか」

「いいえ…。多少は知ってますけど、触りだけで。僕らはサッカー部でしたからね」

「そうか」

もしかして、これは、井上権蔵の夢なのではないだろうか、とふと思った。井上権蔵というのは凄い人で、裸一貫からこの井上映像の基礎を作り上げ、多くの映像技術者を輩出した、とされる。ご存じのように、ファンタジーが流行したのはせいぜいが1980年代以降であって、井上権蔵の時代はそんな時代ではなかった。もしかして、井上権蔵は、異色の映像人とも呼ばれていたし、晩年にはSFに傾倒していた、とも言われている。これは井上権蔵の壮大なセットなのではないか…。その疑問を鈴本にぶつけてみると、

「うーん、我々が冒険をしてみて思ったのですけれども、そのようでもあるし、そうとも言い切れない部分もあると思います。まず、この世界で触ったり、匂いを嗅いたり、味わったりするものは本物ですし、御覧なさい、太陽もあのように輝いております。夜には月も出ます。今は新月ですが。しかし、そうであっても、虚構のような感覚になる時があるのです」

豊田と彼女も、言った。

「ヤマっさん、僕がこちらに残る、というのも、こちらの世界は、しっかりとこちらの世界だから、なんですよ。信じられない、と思うのはしょうがないですが、これはこれで現実なのです」

「豊田さんに、あちらの世界の話も聞きました。こちらの世界の方が遅れているようだけど、私にしたら、そんなあちらの世界があるって事が、不思議に感じます」

そうすると、どちらが虚構なのだろうか。もしかして、こちらの世界が現実で、我々の世界の方が虚構、なのかも知れぬ。そうすると、もう二度と、我々の世界に戻れないのではないか…と思った。私は、豊田と彼女、お爺さんとおばさんに別れを告げ、鈴本やアルバイト諸君を率いて元の地下室に戻る事にした。バーの出口で、お爺さんは言った。

「うむ、このドアは、何時でも開いておる。好きな時に、遊びに来るがいい。なーに、心配いらないよ。ドモリも治ったし、そもそも、生粋のこちらの人間は、そっちに行く事はできねえのさ。わしは、どっちの人間でもねえから、往来自由よ。もし、別のところで迷ったとしても、何としても、このドアを見つけな。それまでには時間がかかるだろうが…おっと長話になる、じゃあな。また、来いよ」

そう言って、お爺さんはドアを閉めた。我々は、元の地下室に戻ったのである。ちゃんと戻れた事にはホッとした。携帯電話の時間を見ると、時計は狂わず、月曜日の午前3時を示していた。また朝から仕事があるし、時差ボケが数時間あるが、とりあえず、あるものはそのまま、C棟に戻る事にした。鈴本は、私の部屋には他にもベッドがあるので、そこで休ませる事にした。そして朝、チョウさんや守衛に報告して、本社に伝えてもらい、沙汰を待つしかあるまい。アルバイト諸君も月曜日からは仕事がある。鈴本はベッドに入ると、すぐに眠った。死んだように眠った。幸福そうな顔だった。それだけでも、私がこうして小さな冒険をした意味があっただろう。彼がどんな辛い冒険だったか、楽しかったのかはよくわからないが、鈴本にとっても大仕事が終わったのであるから。

そして数時間経って、始業の時間となった。私はB棟で朝の訓戒を述べ、あとは監督にお願いして、チョウさんと守衛のところに行く事にした。チョウさんは朝から守衛と一緒にいた。意気投合したようである。私は、チョウさんに、見たもの聞いたものを、かいつまんで話した。チョウさんは、びっくりし、喜び、嬉し泣きした。

「で、鈴本くんは、まだ寝ているのか」

「はい。大冒険の後ですからね」

「そうか、そうか。私が、フィナーレ、と言った言葉の意味をわかったか」

「??」

チョウさんは、右手で、「先」を指さした。

「ヤマさん、見るがいい。これが、この虚構の果て、だ」

「先」は、真っ白だった。

「ヤマさん、君は、ブラウン管の外から、私たちを見ていてくれ…さらばだ」

私は、そう、ずっと、テレビジョンの砂嵐をぼんやり、眺めていたのだった。それをずっと忘れていたのだ。しかし、私は未だにC棟にいるし、鈴本も部屋で寝ている。さっきと同じように寝ている。少し、空気が淀んできたようにも思える。でも、段々と、曖昧な感じになっている気がする。自分が虚構めいたセットの中で、台本を読んでいるような気分になる。そしてそれに逆らう事はできぬ。部屋にチョウさんが訪ねてきた。チョウさんも、さっきと同じ服装、様相だった。少し慌てた素振りだ。

「いや、さっきは済まない」

「えっ?」

「私も、自分の言っている事が、よくわからないのだ。疲れているのかな」

「どうしましょうか」

もうすぐ、本部の人が来るらしい。チンチン電車に乗ってくるそうだ。刹那、いや、2時間待ったかは不明だったが、チンチン電車は、C棟のターミナルビルで停車し、離発着の合図を出し、カーニバルをキャンセルして、待ち時間を使って、銅鑼を打ち鳴らし、元気良く、財宝を回収した。税制上の問題があるので、会社で引き取り、毎年少しずつ、年金のような形で鈴本と豊田に報酬を与えるそうだ。時価は100億円だそうで、2割は冒険者に与えるそうだ。それには、井上権蔵も大喜びで、老衰の上ショックを受け、200歳で大往生。これには、香典返しが藪の中、檻の中、ホリエモンの読書は頑張った。それが暗喩となって、皆、一旦、死んだ。そう思わせて、余命を保つように。そして、星が瞬き、星が瞬き、凶星堕つ。境が、境が、曖昧になって、幻想になって。目まぐるしい攻防の末、紆余曲折の果て、私は気付いた。

あの時、地下室のATMの封印を解いた時、既に、気違いが、こちらの世界に闖入してきたのだ、と。淀んだ空気は入れ替わり、向こうの世界が救われたと同時に、こちらの世界は救われなくなったのである。

「私の1000万コインを返せ…」

それが、世界での、私の最後の呟きだった。私はもうここにはいられない。誰かがこの世界を救ってくれるだろう。

山城の、その思いは消え去った。彼の自意識は消え去った。山城氏が気付いた時、彼は、うらぶれた街角で、マフラーを巻いて、コートを着て、浮浪者とルンペンの野外ボクシングを見ていた。シュッ、シュッ。いいぞ。やれえやれえ。山城氏は応援もせず、ただただ、傍観していた。彼は、彼の身一つ、何とか生き延びた事に気付いた。ここはどちらの世界なのだろうか。あちらか、こちらか、それとも別のところか。気違いのようなものを出入りさせたせいで、山城氏は、一つ、世界を、潰してしまったのだろうか。

木枯らしが、満月の夜を吹き抜けた。寒い。寒い。ポケットには銀貨がある。20枚ほどある。金貨は2枚あったが、騙されたようだ。もうない。これで、ごろつき宿で眠り、明日から日雇いで働こう。きっとまた出世できるだろう。山城氏は、この世界も、きっと、読んだ事があるのだろう。ただ、読んでいる事を忘れてしまうし、そのただ中にいる時は、その中であるからだ。虚構ではないのだ…と思った。彼の後姿は、むしろ、嬉し気で、見ようによっては切なげだったやも知れぬ。世界を飛び交う気違いめいたものは、再びおとなしくなり、また、山城氏の順調で退屈な毎日が始まるのである。傍観者のままで、あるとしたら、全うできるだろうが…。もう、何もかもわからぬ。誰にも、顛末を知る事はできぬ。星空が瞬いた。あれは何の光だろうか。

遠くに、街の光が見える。その前に、関所がある。ここは貧民街であり、向こうに行くにはこちらで将軍にならねばならぬ。あの街の中に、きっと、あのバーのドアがあって、お爺さん、おばさん、若夫婦が待っている。しかし、元の世界を救うには、こちらから軍隊を連れてゆかねばならぬ。そうするには、まだ時間がかかる。山城の現在が、私たちの現在に追いついてしまった以上、何も述べる事はできぬ。語り部は未来を語れぬ。そう思えるだけだ。

そして、話は途切れた。誰がこの話を語っていたのだろうか。わからぬ。再び、山城氏が正気に戻るまで、この話は途切れたままである。カナダの古書店で20ドルで売っている、ロビンソン百貨店20年史補遺集に挟まっていた、メモ書きが、この話を引用した事だけがわかっているそうだ。それを見つけたのは、チョムスキーだった。そのメモ書きによれば、山城氏はO型だそうだ。


文学ブンガク夢中作左衛門むがむちゅう

これは、達磨外しの角帽がくせいが、ふとした霊験や直感インスピレーションから瑠璃光如来に帰依して、お百度参りをしていた時分、悲鳴電車ラッシュアワーの些細なトラブルから親しくなった、元株屋稼業人しょうけんマンのあははの三太郎から聞いた、平成時代ぼくらのじだいのお話である。

下卑蔵げびぞうは、近所の金物問屋がらくたやの裏手にある、プレハブの倉庫ガレージを改修した教室で、文学を習っていた。もう三年になるだろうか。醤油樽しょうゆだるフラワー・ゲート商科大学を出てから上京して兜町かぶとちょう株屋ニッコーに勤め、それこそ濡れ手に粟ウハウハの時代もあったが、株券かぶの"デジ変換タイズ"が決まってこの方、立ち合いの妙や、 強引な営業はできなくなってきており、焦った下卑蔵の前時代アナクロ的なやり方で大事故をおこし、解雇された。それから後、貯金と失業保険と配当で食っていた下卑蔵は、やにわに文学者として身を立てようと思い、流れ流れて、馬淵宗徳ムネさんという株屋ニッコー時代に知り合った、地面師やくざの社長の甥から、文学を習うことにしたのだった。

社長とは、株券かぶを通じて長い付き合いであり、今住んでいるアパートも社長から紹介されたところだ。最初の半年は、社長の飼っている狒々ヒヒと一緒に暮らすことが条件だった。真夜中に目が覚めたとき、狒々ヒヒの濃厚な気配を感じて、自分もここまできたか、と思ったものだ。今狒々ヒヒは、動物園ズーで暮らしている。

社長の甥、馬淵金吾は、社長の妾腹めかけばらであったが社長に可愛がられ、金にうるさい男だった、かつて文芸誌に連載を持ち、今では文壇ゴロとなって、手習いの文学志望者を半分くらいは騙している、しかし下卑蔵の目も曇っていたし、藁をも掴むその精神が金吾への傾倒に拍車をかけた。週一回通えばよいところを週に三、四回は通い、文学の何たるか、を一から十まで修得してやろう、そんな風に思っていた。週刊誌で読んだ話、池波正太郎が株屋かぶやから身を起こして戯曲を書き、文学者として大成した…その姿を、自分に投影させているのである。その愚直な一途さは、金吾の詐欺師的性質レトリックに一種の変化と、温情をもたらしつつあった。

「金吾先生、俺の文学を読んでくれないか…」

下卑蔵は、三年をかけて、ようやく文学を完成させ、それを金吾に読んでもらうことにした。行李いっぱいに文学を書いたもののうち、これなら芽が出るであろうという題材を仕上げた。いっときは、狂言回しチンドンやで生きていこうとまで思い詰め、そういう連中のお尻を追って、小銭稼ぎ少々、してみたりもした。狂言回しチンドンやは三日やったらやめられぬ、というが、確かに自分の性に合わぬでもなし、文学なんて捨てっちまおうとも思った。だが、

(物書きの眼で、狂言回しチンドンやを見てしまうのが嫌だ…)

やはり俺は文学者だ、と、結局は狂言回しチンドンやは一か月でやめてしまった。俺はやっぱりこれだ。審判のときが来たのだ。数日後、金吾は下卑蔵を教室に読んで、差し向かいで座り、

「うむ。きみの文学を、読んだ。まず、文学の骨格というものについてだね…」

「はい、骨格」

「文学の骨格、即ち、文体には無脊椎文体ソフトさん脊椎文体ハードくんとがある。何れもどちらが劣るというわけではない。きみの文体は典型的な脊椎文体だ、つまり脊椎動物、重厚長大な、関節を意識したスケールを目指しているわけだ。それはきみも気付いているだろう、よくやっている、とても、骨組みのしっかりした文学だ、きみは僕が教えた文学理論やレトリックを、如何にも消化して、己がものとしている、それにはとても感心した。ただ…一つ気になる点がないわけでもないんだ。それは、きみが先々月からの月謝を滞らせているということだ、月謝さえ、満額フルで払ってくれたら、僕はきみのことを文壇に紹介しないでもない」

下卑蔵は落胆した。月謝など、もう、払えようはずがない。生活はギリギリまでに詰めて、失業保険も伸ばしに伸ばしたが、とうに切れてしまい、貯金通帳の残高も青息吐息だ。あるのは虎の子の自己色情オート・エロチズム商会の株券かぶ百株で、その配当が今月末に入る、自己色情オート・エロチズム商会の株券かぶさえ、売り払ってしまえば、月謝は払えるかも知れぬ。株券かぶの"デジ変換タイズ"は今年いっぱいなので、配当を待たずに、株屋に駆け込めば、"デジ変換タイズ"の諸々の手続きを回避して換金できる、何とかなる。下卑蔵は、木の電柱だらけの横丁の、特飲街のオーナーを顧客に抱えている裏町の小さな株屋だ、そこでもって、隠居株の押し付けだのと皮肉を言われつつも株券かぶ百株を投げ売りし、月謝を払った。そして金吾先生に、文壇に紹介してもらうのだ。

翌月、金吾と下卑蔵は、とある文壇バーに来ていた。そこで、純文学の大家である、細川妙斎先生を紹介してもらう段取りがついていた。細川先生さえ、紹介してもらえれば、何某かの文芸誌に、下卑蔵の文学を掲載させてもらうことができよう。細川先生は物腰の柔らかい人で、金吾を見るなり微笑んで、

「金吾くん、きみの弟子、下卑蔵くんと言ったかね。文学を読ませてもらったよ。いや、下卑蔵くんはまるで、明治の文豪、来島くるしま鉄岩てつがんの再来とも言うべき、大きな才能だね、プレイバック平成の来島、今来島いまくるしま、正に巨星現るだ。聞けば、醤油樽しょうゆだるフラワー・ゲート商科大学出身だそうだね。あそこの学長には、随分世話になったんだ。…うん、『月刊・文芸ロマネスク』の巻頭とさせてもらうことにしたよ。まあ、飲もうじゃないか」

と、一気呵成ストレートに話が進み、下卑蔵はデビューを約束された。細川先生と、金吾先生、そして下卑蔵もいずれ先生とも呼ばれるだろう、三者は文壇バーで大いに飲んだ。小一時間して、だいぶ酩酊してきたが、細川先生が当然、私がここの会計を持つよ、若い諸君はもっと飲みたまえ、といって勧めてくる。下卑蔵もしたたかに飲んだ。ホステスの胸元の汗が光る。ホステスの白い肌、開放的な性格、額の汗で化粧が少し落ちている。

(…口説けば落ちるかも知れないな)

寡黙なバーテンダーが煙草を買いに行っている間、下卑蔵はお手洗いに立ち、便所の引き戸を開けた。長い滑り台があった。ほの明るい光に向かって、遥か彼方まで下りの滑り台が続いている。何かの冗談か、仕掛けギミックだと思った。ごく自然な現実の続きのように思えて、下卑蔵は気を抜いたまま、引き戸を開けた後の条件反射として前進してしまい、そこへ真っ逆さまに滑り落ちてしまった。しまった、とは思ったが、丁寧に整備された滑り台であり、爽快さと安心感があった。抗うことが苦しくなるほどに、気持ちよく滑った。そのうち、もう戻れないほどに傾斜がきつくなっていく。ただ滑り落ちる。

人生の最終幻想ファイナル・ファンタジーか。違う…。これは幻想や幻覚ではなく、どうやら滑落しているのは事実のようだ。下卑蔵は、せめて精神は保とうと思った、ならば、現実逃避の思考を巡らせようと思った。そして考えたのが、学生時代のことの思い出であった。下卑蔵は学生時代、学生ローンに手を出してしまい、にっちもさっちもいかなくなった。そこで腕に覚えのあった麻雀で一稼ぎしようと企むも、麻雀ゴロに捕まってより借金を増やしてしまう。そんなとき、当時は珍しかった外国人留学生のアルトーと恋に落ちて、逢瀬を重ねながら、一方ではアルトーの持っていた、Queen Elizabeth II Gold Sovereignエリザベス金貨を盗み、それを換金して借金を返してしまう。そのことを思い出すと胸が痛んだ。アルトーは、最後までそのことに気付かないフリをしていた。良心の呵責に耐えられなくなって、下卑蔵は行方をくらまして、違う街で仕事を探したのだ…。アルトーは最後の日まで、下卑蔵の眼を、その青い眼で見つめていた…。

(アルトー…!!!)

気が付くと、白夜のような空にあって、沼地が一面に広がっていた。下卑蔵の酔いは何時の間にか醒めていた。頭の芯が痛いので、一晩、眠りながら滑り台を滑り落ちていたのかも知れなかった。アルトーのことを考えながら、長く、深い眠りの中で、アルトーの夢を見ていたような気がした。まだアルトーの感触が、気配があるようだ。

「アルトー?」

だが、アルトーがいようはずがない。下卑蔵は、ふと、自分は地獄に堕ちたのだと思った。これまでの、まるで徳を積むことのない生活が、自分を生きながら地獄に堕とせしめたのだと思った。

「細川先生、金吾先生、俺は!!!」

当然、両先生はいるはずがない。下卑蔵は悲嘆に暮れて、さめざめと泣いた。泣きながら、沼地の奥へ奥へと歩いていった。このまま沼に飲まれてしまおうと思った。もう膝まで泥に埋まっている。このまま泥に埋まってしまおうと思った。こんなところに来てしまっては、文学者にはなれない。沼地に泥だらけの岩場があったので、そこに手をかけながら、少しずつ沈んでいこうと思った。

岩場には、女がいた。泥まみれの女である。女は、愛想がよく、下卑蔵に何処から来たのか、行くあてはあるのか、などとねぎらった。下卑蔵も情に流され、その泥だらけの女に、自分の素性を油断なく、流れるように話した。女は、

「そうかい。あたいは、赤ん坊のときから、今の今まで、泥の中で暮らしてきたんだ。あんたはいいじゃないか、大学へ行ったのだろう、あたしは、ずっと泥の中で…そうだよ…あんたが生まれる前からさ、ずっとここでさ。泥の中だよ。そりゃあ楽なもんじゃないよ。だけど嬉しい気持ちもあるさね。だって、何だって泥じゃないかい。あんたは大学で何を習った?あたいは泥に全て教わってきたよ…」

泥の中で暮らしてきたこと以外に、話題トピックのない女だったが、本当に手詰まりになった下卑蔵は、ねぎらい言葉に求婚ひとつといった要領でもって、この女と所帯を持つことにした。泥が下卑蔵の心をほぐした。女と泥が、堕ちた下卑蔵を待っていた。

「あんたはここに来た…」

(俺は、ここでこの女と、暮らすのだ)

愛…終わりのない生活…そして、ここでの長い時間が過ぎたように思った…下卑蔵は、時間の感覚を失って、それは十年かも知れないし、三週間かも知れない…。

子供はできなかったが、下卑蔵と泥まみれの女は、仲よく沼地で暮らしているし、今では下卑蔵も泥だらけだ、文学なんてもう、どうだってよいのだ。泥と女さえ、あればよいのだ。それが下卑蔵の現実である。泥の中で、かいつまんで言えば惚れた女と暮らしていく、何の心配もない、泥まみれでふたり、沼の地平の果てを指さして、

「新しい泥だ…」

と、新しいニュー開拓地フロンティアを見つけて喜び合う、そうやって暮らしているのだから、世話もない、下卑蔵は、

(今のこの暮らしこそが、俺の文学だ…)

などと思ったりする。


さて…。

純文学の大家、細川妙斎と、下卑蔵の師匠、馬淵金吾は、蛇松線じゃまつせんを下って興国寺通りに向かっていた。蛇松線は戦前からある鉄道で、漁港から、蛇のようにうねうねと曲がりながら、ゆっくり走る電車である。持ち物は下卑蔵の原稿と、彼が書き溜めた原稿の入った行李である。興国寺城通りに、細川が懇意にしている出版社がある。『月刊・文芸ロマネスク』も、この出版社から出す塩梅なのだ。

『月刊・文芸ロマネスク』の編集長は、ひどく肥えた男で、二人をソファーに座らせると、自分もどっしりとソファーにその身を埋めた。

「先生、その下卑蔵くんっていうのは、どこ行きはったんや?」

「それがなあ、どうも足を滑らせて、行方不明なんだね。昭和の来島、怪物現る、とんだ傑物だと思っていた矢先にね、いや残念だが、原稿は生きている、これをきみに預けるから、いいようにしてくれたまえ」

「さいですか、ほな、わてに任せておくんなはれ」

興国寺城通りは、北条早雲の持城であった興国寺城を望む城下町であり、蛇松線の終着駅でもある。日本最初のパーマネント発祥の街として知られ、美容院の学校が乱立しており、またクリーニングの工場が幾つも立ち並び、全国からクリーニングの衣類が集まるところでもある。細川と金吾は、定食屋で焼肉定食ひがわりを食べ、一息ついた。

「金吾くん、下卑蔵くんは堕ちてしまったのであろうか。彼も随分迂闊だったな。あの引き戸ね、どうして開けてしまったのだろうね、もっと近くに新しいトイレがあるだろうに、わざわざ、奥の方のトイレなんかを使うもんだから」

「はい、先生、あのバーの引き戸の向こうに、あんな穴があるとは。突然穴が開いたようにも思いますね。僕が、あの引き戸を以前、開けたときは、土壁で塞がっておりましたけれども」

「金吾くんは、穴を塞いで、だいぶコンクリートも使ったようだが、きみもだいぶ今回、お金を使ったね。随分、よいコンクリを使ったそうじゃないか」

「ええ、大丈夫ですよ、それぐらいのことは。不渡りを出した資材屋が見つかったので、安く買い叩いたのです。ああいうのは、しっかり塞がないといけませんからね。コンクリをケチっていては。その後もおかしな評判も立っていないようで、何よりですよ」

「いやあ、疲れた。ゆっくりして、明日帰るか?」

「今夜帰りましょうか。先生、蛇松線がそろそろ来ますよ。東海道線直結で、三島着っていうのがありますから、すぐに新幹線で帰れますから」

定食屋の前を、金髪ブロンドの女性が通り過ぎた。アルトーである。アルトーは、文化人類学者になっていた。既に所帯も持っている。アルトーは、興国寺城通りで行われる『かげのまい』というお祭りを研究しに、日本にやってきた。子供は、妹夫婦に預けて、一昨日から来日した。アルトーは、定食屋に入り、ビールと枝豆を頼んだ。もう稲刈りは終わったが、汗ばむ陽気で、アルトーは醤油樽しょうゆだるフラワー・ゲート商科大学のタオルで、汗を拭った。

(…ふう)

『かげのまい』は、今夜行われる。既に大学を通じて、見学のアポイントはしっかりと取ってある。『かげのまい』つまり"Shadowシャドウ Danceダンス"、暗闇の田んぼの中を、灯りを決してつけずに、舞い踊る五穀豊穣の祭りだ。アルトーは、ロンドンの骨董市で日本の古いテラ銭を発見した。それが何百枚とまとまった出物でものがあり、そのテラ銭は、この『かげのまい』を祭る社のものであることが判明したのであった。

テラ銭の出物の流通を調べたところ、それが出土したイギリスの片田舎でも、"Shadowシャドウ Danceダンス"に近い"Festivalフェスティヴァル"が存在していた。記録を比較してみると、類似点の方が多いぐらいであった。あまりに偶然だが、伝奇オカルトめいたノンフィクションを書くように出版社から言われており、『かげのまい』をめぐる話を一発、書いてやろうと、日本に乗り込んできたアルトーであった。

アルトーは、祭りまでの間、社にて、のんびりと風情を楽しもうと思った。社は、田んぼが続く村々の奥の方にある。タクシーで向い、社に行くと、村人たちが、めいめい、古い着物を着て、陣取っていた。

「これは教授センセ、よう来なすった」

「ああ、村長。これはお土産です」

「おお、すんませんのう」

アルトーは、謝礼の他に、イギリスのクッキーをお土産に用意してきた。村人たちも警戒することなく、和気あいあいとした雰囲気だ。時折、おどけて陰部ワタクシモノを見せてくるのには閉口したが、そういう行動を取ることは事前に知っていた。

社の方を見ることにした。静かな林の木漏れ日の中に、その社はあった。鳥居があり、お稲荷さんが並び、社がある、こじんまりとした社である。アルトーは、石段に腰かけて、夜が更けるのを待つことにした。用意してきたサンドウィッチを食べながら、来るべき祭りを待つのである。村人たちは、はやくも宴会を始めているようだった。公会堂よりあいから歌声が聞こえてくる。馬鹿騒ぎの嬌声が聞こえる。村人たちの痴態をつぶさに観察するのも、本のネタになる。夕陽が見えてきてから、相手にしようかと思う。

(かげのまい…どんな祭りだろうか)

アルトーは、座ったまま眠ってしまい、夢を見た。目覚めたとき、空は赤く染まっていた。慌てて公会堂よりあいに駆け込むと、男も女も、裸になって踊っていた。

(これは…美しい)

淫靡エロな感じとてなく、ただ、素直に服を脱いで、ただ踊る。裸の狂言回しおばあさんが、座布団に座って、ニコニコ笑っているので、アルトーはその横に座った。

「あんた、大学の先生だってね」

「そうです、アルトーといいます」

「いいときに来たね。もう、この衆の裸踊りが終わるところだよ。ほんだら、すぐに陽が落ちて、このあたりは真っ暗闇になる。ほんだら、ここらの使ってない田んぼに、水さ入れてドロドロのグチュグチュにしてあるところがあっからよ。そこでもって、泥まみれになって村の衆が踊る。そうだ、あたりの灯りは全部、消してあっからよ、本当に真っ暗なんだ。灯りはつけちゃいけねえよ」

アルトーは、クッキーを狂言回しおばあさんにプレゼントした。狂言回しおばあさんは、顔をクシャクシャにして笑って、

「ありがてえなあ」

と、アルトーを伏し拝むのであった。そして、

「今夜は、面白いもん、見れると思うよ。随分、田んぼが濡れてっから、水が自分から沸いているんだもん、神さんが出てくるんじゃにゃあ?あんた・・・随分探しておったろ・・・・・・・・・

と、アルトーに示唆した。狂言回しおばあさんの言うように、あたりに闇の帳が降り始めて、村の衆は古い着物に着替えて、めいめい、ハチマキなんか巻いたり、神妙な顔つきして、『かげのまい』の準備に入った。狂言回しおばあさんは何時の間にか、いなくなっていた。


「おう!おう!」

「ござっされ、ござっされ」

村の衆は、声を張りながら、公会堂よりあいを出て、田んぼに向かう。田んぼに入ると、それぞれが、勝手気ままに踊り狂う。ハッスルして踊る。公会堂よりあいの灯りが最後の灯りで、踊りが始まると、公会堂よりあいの灯りは消してしまう。あるのは、月や星の光だけだ。

「ぎゃーーーーっ」

「あひゃあ」

「あーーーいっ」

目が慣れてくると、泥の中でふざけている村の衆が見える。思ったよりも、気の抜けた祭りのように思えて、アルトーは苦笑しながら、ぽかあんと、闇と泥を見ていた。泥の中の村の衆に、よその村の者だろうか、男と女が加わった。既に泥だらけだったので、行きすがら、田んぼに転んだのだろう。この連れ合いの参加が起爆剤となった。村の奥手の女たちも、興が乗ってきて、田んぼに飛び込むように駆け入った。

アルトーの気持ちも高まり、そのまま、田んぼに入った。最初は躊躇していたが、村の衆と、泥遊びをするのは、とても楽しい。童心と、大人の気持ちが混じり合う。そのうち、村の女と男が、乳繰りあっているmake in loveのをも見た。これもイギリスの祭りの記録と同じだ。アルトーも貞操観念chastityが低いため、誰か適当な相手を探そうと、踊りながら、村の衆へと近づく。

村の衆は、よその村の者だと思っていた、男と女…。それは、下卑蔵と泥の女であった。村の時間で日没したとき、泥の女は、

「あんた。今夜は、あたいも子種を貰ってくるから、あんたも子種を誰かにあげてくるんだよ」

「何だ、藪から棒に…」

「あんた、これが泥の世界の道理ってもんだよ。こっちだよ」

「…待てよ、こっちか、こっちか」

泥の女は、下卑蔵を連れ出して、沼地の中の泉に飛び込んだ。そうして、この夜、この村の田んぼに、男と女が現れた。

かくして、下卑蔵とアルトーは、『かげのまい』でまぐわう機会を得たのである。月が雲に隠れて、本当に真っ暗闇になったとき、下卑蔵は、アルトーを見つけて駆け寄った。

「アルトー…」

アルトーの肩を抱いて、引き寄せた。アルトーも下卑蔵がわかった。

「下卑蔵、下卑蔵」

「俺は、来たよ…」

「下卑蔵」

泥の中、二人は、抱き合って、夢の中の出来事のようだった。いや、夢だったのかも知れぬ。紙幅は省くが、まあ、色々あった。枕伽マクラノトギは泥の中で始まり、泥の中に終わる。空が白々と明け始めた頃、村の衆は、何事もなかったように、泥を洗い流し、すっきりした顔つきで帰っていく。

(…下卑蔵は、神になったのだ)

アルトーだけが知っている、この夜の秘密シークレットだ。泥の神様と、自分は、まぐわってしまった。それはすぐにわかった。他の人とは、他の村の衆とは、全然違った。抱かれてわかった、下卑蔵は、この世のものではない・・・・・・・・・・と直感した。下卑蔵は・・・・泥そのものだった・・・・・・・・狂言回しおばあさんはきっと巫女priestessだったのだろう、自分と下卑蔵を引き合わせてくれたのだ。

もうすぐ、バスが来る。この村を出て、アルトーは元の生活に戻らなくてはいけない。自分は許される気がした。いや、アルトーは自分を許していた。アルトーは、心の底でずっと下卑蔵げびぞう夢中作左衛門むがむちゅうなままだったのだ。それほどに、この祭りは美しかった。稲刈りが終わった後の、田んぼを眺めながら、アルトーは、水筒のぬるい紅茶アッサムを飲んで、

(また、来年も来よう)

と思ったのであった。まばらな乗客を乗せて、遠くの村道から、バスが来る。もう帰らなくてはいけない。もう帰るんだと、そういう気持ちに自分を躾けていかなくてはならない。公会堂よりあいの方で、年嵩としかさの女と、若い女が、押し問答をしながら、

「あたい、生きているんだよオ」

「おうおう、おうおう、生きてるんだよねえ、おみっちゃん」

などと、結局は抱き合って涕泣して、ドラマだ、村のドラマだ、もう少し見たいが、嗚呼、もうこの村とはさよならだ、バスが停まる、醤油樽しょうゆだるフラワー・ゲート商科大学のタオルで、鼻の下の汗を拭って、アルトーはバスに乗る。


お座敷にて

料亭の二階のお座敷である。

三味線の四重奏、かっぽれ、かっぽれ、よいとさーよいとさーと、俺と部下の鈴岡はお座敷に居た。俺たちを招待したモルガン商事のモルガン卿は、未だ来ない、酷く居心地が悪い。お座敷芸者たちは、高砂のでんでん太鼓がめでためでたーの、等々唄っているが、俺たちはどうすれば良いのだ。

鈴岡が足を崩した。俺は欄間の龍と睨み合って、調子外れに手拍子を打った。コンパニオンがお膳を持ってきた。白菜の漬物と、御粥、そして味噌汁だ。芸者がすうと居なくなって、入れ替わりにモルガン卿がやってきた。モルガン卿はその巨躯を俺と鈴岡の間に捻じ込ませて、

「マイナスドライバーはないですか?」

と、肩をすくめた。これは彼の十八番のジョークなので、

「オルタナティブも真っ青よ」

と返さなければならない。雨が降ってきた。酷い雨だ。横殴りの雨がこの界隈に叩き込まれる。水着のコンパニオンがやってきた。という事は、これからセメントの談合が始まるわけであって、俺と鈴岡は分度器で床の間の柱が87.6度である事を指摘して、そこからの黒田節を披露する、何時ものパターンだ。


静かな夜

真夜中  路地に這って苔を舐めた 何の音もしないのである もう何日も雨が降っていない 溶けたバターは 薄汚い瓶に詰められて 倉庫の奥で出荷を待っている 痩せぎすの犬が 喉を震わせて 乙女の脱ぎ捨てた外套に 身を捩りつけて みじめな顔で虱を振り払う 待ち草臥れて  涕泣する守衛が 金庫の鍵を捨ててしまって 急ぎでない縫物仕事をしている 僕は それを嫌に思って 路地に這って苔を舐めた やっぱり 何の音もしないのである